マリー・キュリーは「強すぎる放射能」から何を見つけたのか
2026年11月7日はマリー・キュリーの生誕159年。二度のノーベル賞の陰に、ひとつの素朴な疑問があります。鉱石に含まれるウランだけでは、その強い放射能を説明できないのはなぜでしょうか。

材料の内訳はわかっているのに、測ってみると予想より強い作用が出る。装置の不具合なのか、混ぜたことで性質が変わったのか、それとも数え落とした成分があるのか。マリー・キュリーは最後の可能性を、確かめられる研究課題にしました。ラジウムとポロニウムへの道は、ひらめきから答えへ一直線に進んだわけではありません。比較と対照、そして化学分離の積み重ねでした。
見えない放射線を、比較できる量にする
アンリ・ベクレルがウランの放射線を発見したのは1896年。キュリーは1897年から、その系統的な研究を始めました。写真乾板に作用するかどうかを確かめるだけでなく、さまざまな試料の放射能を比べ、何がその強さを決めるのかを知ろうとしたのです。
手がかりになったのは空気でした。電離放射線は原子や分子から電荷を持つ粒子を生じさせます。電位の異なる金属板の間に空気があると、その電荷が移動して非常に小さな電流が流れます。条件をそろえれば、この電流を試料の放射能を比べる目安にできます。キュリー博物館による電離箱の解説は、その変換の仕組みを説明しています。
これは、一つひとつの事象をクリック音で知らせるガイガーカウンターではありません。測っていたのは、放射線がまとめて生み出す電気的な作用です。後の方式については、ガイガーカウンターが音を出す理由の記事で紹介しています。見えない相互作用を観測可能にする点は共通でも、装置と読み取り方は異なります。
水晶が測定の基準になった
キュリーの測定法は、電離箱、高感度の電位計、圧電水晶を組み合わせたものでした。ピエールとジャックのキュリー兄弟は1880年、ある種の結晶を変形させると電荷が生じる圧電現象を発見しています。この性質を使い、水晶に制御した力を加えて予測可能な電荷を生み、電離箱から来る電荷とつり合わせることができました。
未知の作用に、比べるための基準ができたわけです。単に表示が大きく動いたと眺めるだけではありません。制御して作れる量と比較することで、測定の意味がはっきりします。博物館の圧電水晶の解説には、加える重さと生じる電荷の関係が示されています。
精度を支えたのは、電気的な絶縁、装置を扱う技術、時間をかけた観察でもありました。センサーがあれば信頼できる測定が完成する、というわけではありません。試料と同時に置き方まで変えてしまえば、大きくなった信号には複数の理由が考えられます。比較できる条件を保つことも、測る仕事の一部です。
ピッチブレンドが予想から外れた
キュリーは、ウラン化合物の放射能が含まれるウランの量と関係することを見いだしました。化学的な結びつき方を変えても、その作用は消えません。特定の化学反応ではなく、元素そのものに関わる性質だと考える手がかりになりました。
ところが、天然の鉱物には説明しきれないものがありました。ピッチブレンドや天然の燐銅ウラン鉱は、わかっているウラン量から予想されるより強い放射能を示したのです。1911年のノーベル講演でキュリーは、酸化ウランを75%含むある種のピッチブレンドが、その酸化物の約4倍の放射能を示すと述べています。これは特定の試料と測定条件の比較であり、すべてのピッチブレンドに当てはまる固定値ではありません。
大切なのは数字の派手さより、説明との食い違いでした。活性のある物質に不活性なものを混ぜただけなら、なぜ予想外に作用が強まるのでしょう。前提に不足があるか、まだ把握していない成分が含まれているかを調べる必要がありました。
人工の鉱物を作って確かめる
キュリーは純粋な原料から燐銅ウラン鉱を合成しました。人工の結晶では、天然試料に見られた余分な放射能は再現されず、ウラン量に見合う結果が得られました。化合物そのものの性質と、天然の鉱物に一緒に含まれる別の物質の作用を切り分ける対照実験です。
異常な測定値だけで、新元素の存在が証明されたわけではありません。この比較も、一度で証明を終わらせるものではありませんでした。それでも、ごく少量の強い放射性物質が余分な作用を生んでいる、という仮説には具体的な根拠が加わります。
さらに、その仮説は次に試すことを示していました。未知の成分が本当にあるなら、化学的な分離で濃縮できるかもしれません。考えが役立つのは、それを裏切る結果もあり得る実験へと進めるからです。
分けて、測って、放射能の行方を追う
マリーとピエールは、原料を化学的にいくつかの部分に分離し、得られた生成物の放射能を測りました。有望な部分について、さらに分離と測定を繰り返します。未知の物質が通常の方法で性質を調べられるほど集まる前から、信号によってその行方を追跡できたのです。
やがて二つの異なる化学的な道筋が現れました。一方はビスマスに、もう一方はバリウムに伴いました。1898年にポロニウムとラジウムが発表され、ラジウムの研究にはギュスターヴ・ベモンも名を連ねています。当時のラジウム発見の報告で、その共同研究を確認できます。
発表と単離は別の段階でした。その後、キュリーは分別結晶を何度も繰り返し、化学的によく似たラジウム塩とバリウム塩を分けていきました。放射能の測定で進み具合を追い、スペクトル線や原子量の測定など、別の証拠でも独立した元素であることを確かめていきます。
ラヴォアジエの天秤とのつながりも興味深いところです。天秤は質量の出入りを確かめる道具でした。電位計は、普通に量っても直接とらえにくいほど微量の物質を追う道具になりました。測れるものが増えると、化学が答えられる問いも変わります。
実験ノートに残った、文字以外の記録
ここでの放射能は、石のまわりに見える緑色の光ではありません。物理的な作用を測って確かめるものであり、その危険も見た目にはわかりません。フランス国立図書館は2026年のキュリー夫妻のノートに関する記事で、実験操作が紙に放射性物質を残した経緯と、現在の保存・閲覧に特別な対応が必要な理由を説明しています。
ノートには、ページに書かれた推論と、そのページが使われた環境の物質的な痕跡が残っています。研究の労力を具体的に感じさせる資料ですが、放射線への曝露を科学への献身の美談に変える必要はありません。
生誕記念日に思い出したい問い
ギークカレンダーは、1867年11月7日のキュリーの誕生を記録しています。1903年にはピエール・キュリー、ベクレルとノーベル物理学賞を分かち合い、1911年にはノーベル化学賞を受賞しました。その成果を理解するには、賞から測定へと道筋をさかのぼるのも有効です。
比較可能な信号、予想、消えない例外、そして対照試料。その先の化学作業が、説明を証拠へと育てていきました。生誕159年に残るのは、今でも使える姿勢です。十分に確かめた測定が説明に収まらないときは、説明から何が抜け落ちているのかを問い直してみる。その食い違いが、発見の入口になるかもしれません。
