『最後のユニコーン』は、なぜ幸せな結末でも切ないのか

『最後のユニコーン』は、消えた仲間を救いながら、すべての傷を癒やしてはくれません。11月1日のユニコーンの日に、1982年の映画を見直します。モリーの過ぎた時間、アマルテアの人間としての経験、ハガード王の所有欲が、結末の余韻をつくっています。

ベッドに座る少女が、VHSテープやファンタジーの本があるレトロな寝室で、ブラウン管テレビの白いユニコーンを見つめるピクセルアート。

ネタバレについて:この記事では結末を含む映画全体に触れます。人物や映像の意味については、唯一の正解ではなく、私たちの読み方として紹介します。

白いユニコーン、魔法使い、王子。そこから思い浮かぶのは、なじみ深い救出の物語かもしれません。ところが心に残るのは、奇跡に出会って怒る大人の女性、美しいものを手元に置こうとする王、不死の存在が人間の体に感じる恐怖です。冒険が成功しても、その途中で知ったことまでは消えません。

11月1日は見直すきっかけ。映画の公開記念日とは別

ギークカレンダーは11月1日をユニコーンの日として掲載しています。Kuriose Feiertageの記事は、この日を2015年のFacebookイベントに結び付けています。これは記念日の由来に関する同サイトの説明であり、映画の制作記録ではありません。

AFIの映画目録による米国公開日は1982年11月19日です。監督はアーサー・ランキン・ジュニアとジュールズ・バス。ピーター・S・ビーグルが、1968年の自作小説を脚色しました。今日を鑑賞の機会にすることと、公開日を混同することは分けて考えたいところです。

モリーは奇跡と、間に合わなかった時間を見る

モリー・グルーはユニコーンを見ても、ただ喜ぶわけではありません。本物だと気付きながら、なぜ今になって現れたのかと怒ります。この反応によって、おとぎ話の中心に大人の時間が入り込みます。魔法は存在するのか。それだけでなく、待っていた人が変わってしまった後で、魔法に何ができるのかが問われるのです。

もっと安心できる物語なら、信じ続けた人は報われるでしょう。ここでは信じていたからこそ、遅れた出会いが痛い。モリーが向き合っているのは目の前の生き物だけではなく、その出会いを待っていた若い頃の自分でもあります。

私たちは、彼女の怒りを昔の希望を守る行為として読めると考えます。年を重ねたからといって、かつての自分を愚かだったと切り捨てる必要はない。旅に加わるために無垢な少女へ戻る必要もありません。失望を抱えたまま誰かを助けることが、彼女の優しさに厚みを与えています。

アマルテアは、時間が尽きる体を知る

レディ・アマルテアへの変身は、恋愛の始まりに見えるかもしれません。しかし最初にあるのは不安です。ユニコーンは死ぬことのできる体に入り、自分の存在にも終わりがあり得ると感じます。リール王子との恋は、その弱さに具体的な相手と、共に過ごせるかもしれない未来を与えます。

だから変身は、姿が変わるだけの仕掛けではありません。ユニコーンとしては果たすべき目的がある。人間としては、その目的とぶつかる暮らしを望めてしまう。仲間を救うことと王子のそばに残ることが、簡単には一つの願いに収まらなくなります。

ここでは時間の尺度そのものが変わります。不死の存在にとっての「いつか」は開かれたままです。人間にとっての出会いや約束は、繰り返せないかもしれないから切実になる。その切実さを知った後で、元の姿に戻るだけでは忘れられない。そこに変身の代償があります。

ハガード王は、美が去らないことを望む

ハガード王はユニコーンを自分の喜びのために閉じ込めます。その美しさには、必要なときに手が届かなければならない。これはモリーの悩みに対する暗い答えとしても読めます。幸せがめったに訪れないなら、それを生むものが去らないようにすればよい、という答えです。

けれども、閉じ込めることは守りたいものの性質を変えてしまいます。王は眺めを手に入れ、相手の自由を奪う。そこには、相手も何かを望める関係がありません。近くに置けることは、出会うことの代わりにならない。だから解放は、強い怪物に勝つ以上の意味を持ちます。

モリーと王を並べると、その違いが見えてきます。二人とも満たされない願いを抱えている。モリーは誰かと歩き、助け、関わります。王は望むものを動かなくしようとする。一方は未来を受け入れ、もう一方は好きな瞬間のまま固定しようとするのです。

取り戻せるのは自由であって、出発前の自分ではない

ユニコーンたちの帰還は本当の勝利です。リールが生き返ることも喜ぶべき出来事です。映画はその安堵を最後に裏切るわけではありません。それでも主人公は、旅立つ前とまったく同じ存在には戻れない。アマルテアとして知った愛や悔いが、不死の生に残ります。

幸せな結果と、すべてを最初に戻すことは違います。脅威が去っても、経験は消えない。世界が大切なものを取り戻す一方で、救った本人は新しい知識を抱えて生き続けます。森に帰ることは、以前と同じ心に帰ることではありません。

だから切なさは、結末が失敗した証拠ではないでしょう。自由が戻った喜びと、個人的な可能性を失った悲しみは、同時に成り立ちます。デル・トロの怪物と共感を扱った記事にも通じる問いです。空想の生き物に内面が生まれ、誰かの冒険の道具ではなくなったとき、物語はどう変わるのでしょうか。

音楽が、喪失を説明する前の余白をつくる

ジミー・ウェッブの公式略歴は、彼が映画の音楽と歌曲を書いたことを確認できます。見直すときには、音楽が間をどう響かせるかにも耳を向けてください。何が失われたのかを筋書きが説明する前に、旋律が映像を思い出のように感じさせることがあります。

叙情的な美しさ、不器用な笑い、恐怖の間を行き来する調子は、落ち着かないかもしれません。それは同時に、ずっと同じ安心感の中にはいられないことでもあります。表情や沈黙、音楽の間が、説明しきらずに感情を伝える瞬間に注目してみてください。その余白が、筋書きを知った後にも作品の力を残していると私たちは考えます。

次は三人の願いを追ってみる

モリーが望むのはユニコーンとの出会いでしょうか。それとも待っていた頃の自分に戻ることでしょうか。王が求めるのは美なのか、いつでも見られるという保証なのか。アマルテアはユニコーンであることを捨てたいのか、知ったばかりの人間の経験を手放したくないのか。

こうした問いとともに、映画は観客と年を重ねます。絵は懐かしいままでも、待つこと、選ぶこと、別れることの重さは変わります。ユニコーンは帰ってくる。ほかのすべても戻ったふりをしないところに、この幸せな結末の長い余韻があります。